ピンク映画の古傷
19歳の冬、4つ年上の彼氏がいた。
同じサークルの先輩で、
最盛期のポール・サイモンを彷彿とさせる
影のある、彫りの深い顔立ちの人だった。
ありとあらゆる映画に詳しく
特に60〜70年代の映画を好んだ。
私たちのデートのほとんどは
都内のミニシアターか自宅鑑賞会だった。
彼は寡黙で感情の波の少ない人だったが
映画の「撮り方」「脚本」に関しては
こだわりが強かった。
舞台監督や映画製作の経験があったからだ。
特に彼が嬉々として熱く語っていたのは
ピンク映画についてだ。
日活ロマンポルノやらなんやらを部屋で流しては
性的な視点でなく映画作品としての批評を
身振り手振りでしていた。
おかげでファーストキスの思い出すら
傍で流れていたピンク映画に侵食されている。
東京には変わった男がいるんだな。
上京したてだった私は、大都会の洗礼とでも言うように、映画狂が見せるあらゆる世界を旅し、味わい、触れた。洗練された美しい景色もあれば、油絵の具をごちゃまぜにしたような、心にへばりつくようなものもあった。私は目一杯の背伸びをし、無い頭を振り絞り、ミルフィーユのように薄く何層も重ねた知識で身を固めていた。決して愛想を振りまくタイプではない彼の、誰も知らない顔を知っている特別感だけは、ただただ大きかったのを覚えている。サークル内でモテたインテリと付き合っている、そんな高揚感で舞い上がっていたような気がする。
彼と会わなくなって数年が経つ。
セックスの最中、頭の中で、あの頃観ていたあらゆるピンク映画の濡れ場の場面が大昔のフィルム映画みたいにガシャガシャと映し出される時がある。芝居に出てくるセックス特有の、誇張した喘ぎ声と、顔をしわしわに悶え、汗ばむ男女。すぐ目の前で繋がってる相手の表情がそれに重なり、頭の芯から嫌悪感が沸々として、イケたもんではない。
映像の力は絶大だ。こんな時はいつも、視覚的な情報とともに一気に時が巻き戻り、当時の空気、話した会話までを伴って、頭の中で自分が主演のノンフィクション映画が始まる。私は大量のフィルムの中に、インテリに愛されているという奢り高ぶった感情の裏で、あの時間を愛しむ自分を見るのだ。オールナイトで映画を観た後に始発電車を待つファストフード店を、歴史や思想、文芸の世界へ繋がる特別な場所にしてしまう彼に、この上なく愛おしい眼差しを送る自分を突きつけられる。
こんな時、自らの自惚れに対する羞恥心がお腹から込み上げ、古傷が鈍く反応するのだ。
20歳の誕生日に、ゴダールの「女は女である」のDVDをプレゼントされた。散々ピンク映画からのヌーヴェルバーグ。抜け目ないチョイスが憎らしい。今も、彼の中の色褪せたフィルムに、この映画の中のカリーナみたいに無邪気に笑う私の姿が少しでもあるかは定かではないが、そう思えばワインで痛みは誤魔化せる。美化した思い出の取扱いは自由だ。説明書はない。
今夜はもう少し飲もうかな。