人生ミルフィーユ

日々のふとした瞬間の重なり。

帯状疱疹で、一皮剥けたい①

数日間の体の違和感を経て、帯状疱疹なるものを発症した。たいして大きな病気の経験のない身体を、容赦ない痛みと夥しい数の水疱が襲う。


苦痛に顔を歪めて医者へ行ったが、こういうときのストレス溜まってるんだよ、疲れてるんだよという診断ほど、救いにはならないものはない。もっと自助努力でどうにかできる原因なら良いのだけれど。そりゃ、ストレスあるでしょうね。どうしろと?


痛みが生活への活力を奪う。食べる気も起きず、眠れない。呼吸するのも苦痛である。せめて座っていられるようになるまで、しばらく仕事を休むことにした。上司は、私の体調への労いなく、仕事で不具合が出たら連絡するわ、とだけ言って電話を切った。それから、突然止まった私の仕事に対して確認のメールやショートメッセージがいくつか入った。次の日は各所電話対応に追われた。


その後、雨の日と晴れの日が交互に2回やってきた。窓の外からの光があたたかくなり、街行く人が上着を手に持って歩くようになっている。私がグルメ番組とゴシップなのか報道なのかわからないワイドショーを眺めて寝たきり生活をしている間に、春は近づいているようだ。


スマホが鳴らなくなり、時間が過ぎるにつれ、会社員ではなく、私が私になっていく。会社に行かなくてはという焦燥感が薄れていく。私がいなくても仕事や社会は回っている。当たり前のように私の仕事、私の役割と考えていることは、実は自分が創り出した虚像のようなもの。私がやらなければ誰かがやり、その形を変えていく。それ自体、無くなってしまうこともあるかもしれない。


それが虚しいとか悲しいというのではない。会社員であろうとフリーランスであろうとクリエイターであろうと、みんながみんな、自分が作り出した役割の中で社会で生きている。やならければ誰かがやる、もしくは存在を認知されないだけ。そして、この満たされた世の中で、絶対無くてはならない価値を生み出すのはもはや難しい。ないより便利とか、まあ無くても困らないとか、私たちはそういうことに自分の時間を使っている。


社会を椅子取りゲームに例えた話をよく聞く。しがみつかなければ、座る椅子が無くなると。だけどその椅子は、とても不確かな存在。そもそもその椅子、本当に足らないの?もっと言うと、本当にそこにあるの?自分で座らなければいけない、そこにしかないと思い込んでいる椅子を自分で作り上げ、勝手に奪われることを恐れているだけなのに。本当は、無数にあるかもしれないのに。逆に、椅子なんてないかもしれないのに。


だけど、みんな、そうして生きてる。窓の外の世界はそうして流れている。


だからこそ、椅子をどう捉えるかがとても大切。座るべき椅子にこだわり続けるか、少なからず意味があると思える椅子を自分で用意するか。


春、働き始めて10年になる。このタイミングで体を壊したことが、なんらかの意味があるようでならない。