人生ミルフィーユ

日々のふとした瞬間の重なり。

正しく、美しくいようとしないこと。

新学期が始まるにあたり

8月31日は高校生以下の若者が

一年で最も自殺する日だということで

年々、若者の心や悩みにフォーカスする

特番が増えており

なんとなく眺めていた。


典型的ないじめや先生の何気ない一言、

理由はよくわからない  等

学校に行けなかったり

死にたい願望の理由はいろいろだ。


死にたいとまではいかなくても

死んでも別にいいかな、とは思ってたっけ。

特に中学時代はいじめられて友達もいなくて

一人で給食を食べたり

体育の卓球で誰もペアを組んでくれなかったり

そんな日々を過ごした。


いじめられる理由なんかない。

こんな下等な奴らに。

寂しいとか嫌だなとかそんなことより

ただただ、周囲を蔑み

透明人間になる全身マスクを着たような気持ちで

毎日を過ごした。

蔑むことを正当化するため

成績だけはトップを維持した。

学校だけは休まなかった。

「下等な奴ら」に屈しないために。


体が毎日がちがちに固まっていた。

意図して心身を凍らせるには

無意識にエネルギーを要しているらしい。


いじめの事実以上に

「白子ちゃんかわいそう。いじめられっこ。」という、第三者からの目線。

私が一番死にたいと思ったのは

こういう目線を感じるときだった。

私がいじめられていることを

教師にも親にも言わなかった。

全く隠せていなかっただろうが、

知ってか知らずか

私を心配するようなセリフを

親から聞かなかったことだけが救いだった。


親に心配かけたくないという気持ちをじゃない。

ただただ、バレたらダサいじゃん。

それだけだった。

要は、プライドが高く、歪んでいたのだ。


学校なんて行けなくて大丈夫、なんて

時が経った大人だから言えること。

きっと、今みたいに

ありとあらゆる外の世界と繋がれる時代だって

「学校は行けないとだめ」という圧倒的な価値観が世の中、特に中高生の生活を占めていて

行けない自分の出遅れ感や

道から外れてしまった焦燥感は

相当なものなのだろう。


勉強ができることなんて

社会に出れば大して重要じゃないけど

私は勉強することで

その焦燥感をぎりぎりの心境で紛らわせていただけのこと。


学校には行けたけど、健全ではなかった。

なんとなく人をはねつけて

自分を守ることを覚えてしまったから。

思春期の価値観は後を引く。


きっと学校へ行けない人は

私より美しく、優しい。

人も自分も傷つけない方法として

自分を物理的に囲い込んでいるのかもしれない。

当然、気持ちは苦しいだろうに。


学校へ行きたくないなら行かない、は

心がそう思うなら正解。

人生においてその選択をするだけのこと。

あとは、その優しい、美しい心を持ち続けるために

いい感じに「正しくいようとしないこと」。

私がやってきた「人を蔑む」はやりすぎ。

いい感じに、が肝心。


どうせいじめてる側だって

大した理由なんかない。

なんとなくとか、誰かがやってるから、とか。


こう言っては何だけど

いじめる側が自分じゃなくてよかったねって

相手を小馬鹿にして

自分をほめてあげてほしい。