人生ミルフィーユ

日々のふとした瞬間の重なり。

まどろみ女

単調に繰り返すベルの音がだんだん大きくなる。向こうからだんだん近づいてくるみたいに感じるが、実際のそれは手を伸ばせば届くサイドテーブルの隅にある。スマホのアラームだ。


私は目を閉じたまま「なんとなくこの辺」と思しきスマホまで左手を伸ばし、手探りで側面の電源ボタンを押し、音を黙らせた。この動作を5分おきに2回は繰り返す。


5月の朝って罪。布団がうんと気持ちいい。自分の体温と身体と一緒に包み込むあったかい部分とほどよく冷たい部分。掛け布団のこの絶妙なマーブル加減がたまらない季節。私はこのマーブルの誘惑に負け、この電車を逃すと5分遅刻だぞという電車の時間まで、起床を遅らせる。こういうときのために、通勤電車のダイヤの候補は3つ用意しているのだ。


ベッドから体を起こし、カーテンを半分開ける。曇っていて光が入らず、部屋の明るさに変化はない。目覚めが悪いことについて、「低血圧だから」と基本的には諦めているのだが、「朝1番に太陽光を浴びると体内時計が整う」と、いつかの健康番組で目にしてからのこの習慣に、パッと目覚めてシャキッと出勤することに憧れる自分が窺い知れる。「シャキッとする気はあるのよ、一応。一応ね。」と誰に対してでもなく思うのだ。


顔を洗って、スーツ着て、化粧して、髪をセットして、はい、できあがり。30歳会社員できあがり。朝食は食べない。江戸時代までは1日2食でみんな健康だったと、これもまた健康番組の受け売りだ。


玄関のドアを開けて、外の空気に触れた瞬間、まどろみ女は会社員になる。足早に駅に向かい、ホームに並んで、イヤホンでラジオを聴きながら電車を待つ。淡々とした声の気象予報士によると、今日は1日曇りで夕方から雨らしい。


電車がホームに入る。中はスーツ姿の人たちが大半で、真っ黒だ。邪魔にならないよう、これでもかと新聞を細く折り曲げて読む人、スマホゲームに熱中する人、口を開いて寝てる人…身体が触れる距離にこれだけの人が集まっているのに、「私にはあなたは見えていません」とばかりに、みんながみんな、暗黙のパーソナルスペース内に籠っている。満員電車って不思議だ。そして私もホームから一歩踏み出し、この風景の一部になる。


今日の晩ごはんは何にしようかな。

しまった、炊飯器の予約ボタンを押し忘れた。

でもいいや、ビールが一本冷えてたはず。


前に立っている啓発本を読んでる靴の先がトッキトキのお兄さんも、その向こう側で、周囲の女性を気にして必死でつり革に両手を伸ばしてるおじさんも、きっと同じ。私がビール+決まっていない晩ごはんを楽しみにしてるように、1日が終わる楽しみを目指して日々過ごしているのだ。それがビールではないだけで、子どもの寝顔や奥さんの出迎える姿かもしれないだけで。


全然悪くない。

さぁ、今日も最高に美味しいビールを飲もう。