人生ミルフィーユ

日々のふとした瞬間の重なり。

落ちてるようで落ちてない愛

テレビで観た、行列が出来るミートパイの店。

いつもそこにあるであろう行列を仕切るポールが並んでいる。


店はシャッターが閉まっているが

あと10分で開店時間、

どうせなら、と私が店の前に立つと

ただの通行人や、

人との待ち合わせを装っていた人が

キュー待ちだったエキストラのように

急に私の後ろに列を成す。


私の後ろに50過ぎくらいの夫婦が並んだ。夫が口を開く。

「ここいつも仕事で前を通るんだよ。列が長すぎて何の列なのかもわからなくて。」

「そういうときは確認してよ。いつも通るなら買って来てくれれば良いのに。」

「仕事中は並べないだろ。」

「並べーまーすー。」

「ま、そもそもあんまり興味がないからね。」


夫婦は、高校生が友達同士でアイスクリーム屋にでも並ぶかのように、祖父や娘にいくつずつ買って行くかという会話を続けていた。夫は、任せるよと言って、嫌な顔をせず一緒に並んでいる。興味がないのは事実なのだろうが、表情は穏やかで、他愛も無いこの時間を過ごすことへの嫌気は全く感じられない。


結婚で大切なことって、

なんだかんだでこういうことだと思った。

人は自分の「普通」しか知らない

親友と一杯やろうと
天ぷら屋に立ち寄った。
注文した天ぷら盛合せを待つ間、
瓶ビールを注ぎあい、時間を過ごした。

彼は神主である。
代々続く、自身の家の神社を継ぎ
家族とともに暮らしている。
私はサラリーマン家庭なこともあり、
純粋な興味から
宗教法人の経営のことや
日常生活について話題にしてきたことは
これまでもあった。
近況を伺うと
祭りや地鎮祭で忙しくしているそうだ。
いつもいつも、
私とは違う日常の話を聞く。

「ま、でも便利かもね。あんたと結婚したら、
ずっと家にいてくれるから。」

ケタケタ笑ってそんなことを話せるのも
もう10年近い付き合いだからだ。

「でも、そしたら、子供のために私は働き続けるかな。一般的な働き方のなんたるかを見せるのも重要でしょ

すると彼はグラスをカウンターに置き
「それはちょっと違うと思うな」
と前を向いたまま言った。
どちらかというといつも
うなずいて私の話を否定しない彼には
珍しい反応だった。

「じゃあ、たとえば家族経営の八百屋さんや、
老舗の小さな和菓子屋さんは一般的じゃないのかな。」

私は、彼とは大の親友だと思っていた。
彼について大概のことは理解し
許容できているつもりでいた。
しかし、
彼のその一言が、
神主である彼のこと、彼の家を
自分の世界とは一線を画すものだと考えている私を突きつけた

いつも通り穏和な表情の彼だったが、
私の言葉に隠された無意識に
気づかなかったはずがない。
その証拠に
彼は前を向いたまま黙っている。

「そっか。そうだね。でも、多様性だよ!
違った働き方をお互い見せられるじゃん。
子供は二倍お得!」

謝る代わりに彼の肩をポンと叩き
一瞬止まった空気の流れをかき混ぜた。
いやらしい自分に気づかないふりをして、
一緒にかき混ぜて、誤魔化した。

人が感じてる「普通」「一般」なんて
それぞれが互いに見えなくて
所詮、人はそれをぶつけ合うだけ。

自分もその愚かな一人だったのだ。









あたしの白い部屋

珍しく仕事が早く終わらせた。

3時を過ぎたあたりから

もう今日は集中できない、

脳からそんな信号が出ていたけれど

それに気づかないふりをして

カタカタとキーボードを打ち

眉間にシワを寄せて画面を睨んで過ごした。


木曜日はにくらしい曜日だ。

週の後半だ!と張り切ることもできれば

あぁ、まだ金曜日がある、と

憂鬱にもさせる。


ちょうど片道一時間でうちに着く。

ドアノブに鍵ではなく

定期を入れたパスケースを近づけて

自分の疲れの度合いを思い知らされる。


マイブームのたんぽぽコーヒーを入れ

冷蔵庫に入れてあるチョコレートを

包みの上からひとかけ割って口に運ぶ。


塩キャラメルの有機チョコレート。

カカオバターの甘さに混ざって

粒の大きい塩が一粒ずつ

塩味を主張する。


壁が真っ白な部屋。

冷蔵庫も衣装ケースもラックも

すべて白。

テーブルは白いガラス製。

その中で

エアコンが冷気を吐く音と

冷蔵庫のブーンという音だけが響く。


部屋干しの洗濯物、

積まれた書籍、

朝に出かけたままになっている

化粧道具。


私の部屋。

私の日常。

私が好きにできる世界。

舌が少しひりつくぐらいの

熱いたんぽぽコーヒーが

体の真ん中を通り過ぎると

足のつま先から徐々に

そこに本来あるべき何かを

取り戻したような感覚になる。


1日中、私は私なのだけど

そのうちの、こんなふとした瞬間、

私は私を取り戻す。


今日はもう寝よう。また明日が来る。


色褪せた花火

東京から実家に帰る新幹線の車窓。

乗車から時間が経つにつれ、吸い込まれるように暗い景色になっていくことで

日の入り時刻を過ぎ、

夜は夜らしく生活をしている町へ移っていくのだということを実感させる。

 

そう、夜は暗いもの。健全じゃないか。

昨日の夕方、銀座で接待を終えてから

私を配下に置いておきたくて仕方のない上司との

いつ終わるかもわからない反省会につきあって朝を迎えた

ぼんやりした頭で心底そう思うのだ。

 

無休できらめく町の生活は

一旦、進行方向向かって後ろに置いていく。

 

ふと窓に目をやると、

橙色の火花が空に丸い縁をつくり

ちらちらと消えていくのが見えた。

花火大会か。

故郷の町で、夏に開催されるもっとも大きなイベントだ。

次々と大きな花火が上がるはずなのだが

新幹線の過ぎ去るスピードが速いからなのか

目にしたのは、シンプルなその橙色の光だけだった。

 

新幹線を降り、ローカル鉄道の特急線に乗り換えて一時間。

いつもの同じ時間なら、

駅員とスーツの酔っ払い数人がいればまだマシな地元の駅のホームには

階下の改札口からぎゅうぎゅうと押し出されてくる人たちで溢れていた。

水色、ピンク、紫、黄色、いろんな浴衣の色が目に飛び込んできて

その流れ自体が、屋台に出ているピンポン玉救いの水槽の中のようだった。

いろんな色が、列を作って一定方向に流れていく。

 

浴衣の中高生カップル、小さい子どもを連れた家族連れが最も多い。

浴衣という特別な布に身を包み

「夏ならでは」を満喫し終えた高揚感が

夏の熱気で充満したホームを包んでいた。

 

その中の少数派である

普段通り仕事をしている駅員やサラリーマン、私を除いては。

こちらサイドからすれば

単に「ホームが混む・電車が混む」という事実だけを突き付けられ

全く迷惑な話だ。

電車を乗り換え、あと2駅進むというこの行為が

とてつもなく時間がかかることのように感じる。

 

向かいのホームの背後のビルの屋上に

一組のカップルがホームを見下ろしていることに気付く。

男は黒のストライプの甚平、

女は、私の人生では無縁レベルの濃いピンクの浴衣である。

お互い向き合って、

これから月9ドラマのようなラブシーン始めます!という空気が漂っている。

 

ほら、抱き合ったよ。チューしちゃったよ。

 

私だって彼らと同じような時代があったにも関わらず

なんだか遠い国の、異なる文化の暮らしの一部を見ているような気分。

 

たまにしか帰らない田舎にいるからなのか

人前チューが平然とできることへのルサンチマンなのか。

 

花火大会の日には、実家の2階の窓に顔をくっつけて

隣の家の木々で隠れる花火に、もどかしさを感じていたのに

いつから花火は「橙色の火花」になったんだろう。

 

中高生と言われた頃から15年もの間

花火に対するこの思考変化の代償に

どんなものが得られただろう。

何を感じられるようになっただろう。

 

実家の最寄駅に向かう電車がホームに滑り込んできた。

色とりどりのピンポン玉に背中を押され

私はまた、流れの一部になる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

まどろみ女

単調に繰り返すベルの音がだんだん大きくなる。向こうからだんだん近づいてくるみたいに感じるが、実際のそれは手を伸ばせば届くサイドテーブルの隅にある。スマホのアラームだ。


私は目を閉じたまま「なんとなくこの辺」と思しきスマホまで左手を伸ばし、手探りで側面の電源ボタンを押し、音を黙らせた。この動作を5分おきに2回は繰り返す。


5月の朝って罪。布団がうんと気持ちいい。自分の体温と身体と一緒に包み込むあったかい部分とほどよく冷たい部分。掛け布団のこの絶妙なマーブル加減がたまらない季節。私はこのマーブルの誘惑に負け、この電車を逃すと5分遅刻だぞという電車の時間まで、起床を遅らせる。こういうときのために、通勤電車のダイヤの候補は3つ用意しているのだ。


ベッドから体を起こし、カーテンを半分開ける。曇っていて光が入らず、部屋の明るさに変化はない。目覚めが悪いことについて、「低血圧だから」と基本的には諦めているのだが、「朝1番に太陽光を浴びると体内時計が整う」と、いつかの健康番組で目にしてからのこの習慣に、パッと目覚めてシャキッと出勤することに憧れる自分が窺い知れる。「シャキッとする気はあるのよ、一応。一応ね。」と誰に対してでもなく思うのだ。


顔を洗って、スーツ着て、化粧して、髪をセットして、はい、できあがり。30歳会社員できあがり。朝食は食べない。江戸時代までは1日2食でみんな健康だったと、これもまた健康番組の受け売りだ。


玄関のドアを開けて、外の空気に触れた瞬間、まどろみ女は会社員になる。足早に駅に向かい、ホームに並んで、イヤホンでラジオを聴きながら電車を待つ。淡々とした声の気象予報士によると、今日は1日曇りで夕方から雨らしい。


電車がホームに入る。中はスーツ姿の人たちが大半で、真っ黒だ。邪魔にならないよう、これでもかと新聞を細く折り曲げて読む人、スマホゲームに熱中する人、口を開いて寝てる人…身体が触れる距離にこれだけの人が集まっているのに、「私にはあなたは見えていません」とばかりに、みんながみんな、暗黙のパーソナルスペース内に籠っている。満員電車って不思議だ。そして私もホームから一歩踏み出し、この風景の一部になる。


今日の晩ごはんは何にしようかな。

しまった、炊飯器の予約ボタンを押し忘れた。

でもいいや、ビールが一本冷えてたはず。


前に立っている啓発本を読んでる靴の先がトッキトキのお兄さんも、その向こう側で、周囲の女性を気にして必死でつり革に両手を伸ばしてるおじさんも、きっと同じ。私がビール+決まっていない晩ごはんを楽しみにしてるように、1日が終わる楽しみを目指して日々過ごしているのだ。それがビールではないだけで、子どもの寝顔や奥さんの出迎える姿かもしれないだけで。


全然悪くない。

さぁ、今日も最高に美味しいビールを飲もう。





がんを巡る母娘

「帰っていただけますか」

玄関で来客を締め出そうとする母の声がする。


年が明けて間もなく、

比較的あたたかい日の朝。

実家に戻っていた私は、

次の日に仕事始めを控えており

二階の自分の部屋で

Uターンの荷造りをしていた。


何事かと階段を途中まで降りかけ

聞こえた声で足を止めた。

祖母だ。

年末の大掃除をしていて、

娘である母の昔の写真が見つかり

渡しに来たのだそうだ。


祖母は信心深いところがある。

そのこと自体を批難するわけではないのだが

自身の心の安定を保つに収まらず

他人に押し付けて巻き込むところがあり、

それが原因で母は祖母と距離を置き

もう15年近く会っていないのだ。


「体調が悪いの。帰ってください。」

母は祖母が口を開くたびこう切り返し

久しぶりに会う母娘らしい会話を

頑なに成り立たせようとしない。


母は、夏に乳がんが見つかり

在宅で抗がん剤治療をしている。

告知を受けた段階から

祖母には言わないと固く決意し、

手術を終えた。


「風邪かね。まぁまぁ、、」

投薬期間中に風邪を引くと

治療スケジュールに支障を来すため

母は家の中でもかなり厚着で着膨れており、

着ぐるみのようになっている。

脱毛しているためニット帽をまぶかに被っているが、

季節柄か、祖母には大して違和感がないようだった。


一向に帰ろうとしない祖母に

「風邪じゃないんだよ、母さん」

こう言って、

母はニット帽を淡々と外した。

疎らな白髪に頭皮が露わになった娘の頭に

一瞬にして祖母の顔は凍りついた。

「あんた、、何のがんになったの?」


そうか。「がん」だというのはわかるのか。


私が生まれるのと入れ違いに死んだ祖父は

末期がんだった。

信心深い祖母は神仏にすがり

祖父の病室に祈祷師を呼んだり

神様の水だと言い張って

わけのわからない液体を

病に苦しむ祖父に飲ませていたと聞いていた。

その時の記憶から、

母は、穏やかに闘病生活を送りたいと

祖母に病状を伝えることを拒んだ。

神頼みする前にすべきことを考えるべき。

目の前の人の気持ちを考えるべき。

そう考える母は

それが出来ない祖母をいつも疎んじていた。


何故自身が忌み嫌われるのか理解していない祖母は

母に向かって手を合わせ

念仏を唱え出す。

特段取り乱すことも、泣くこともせずに。


「葬式くらい呼んでね」

そう言い残して、

不自由な右足を引きずりながら

玄関を後にした。


相手が全く理解できない信号を送り合う

そのやりとりを

私は階段の最上段から見下ろしていた。

長年蓄積された不調和は

数分の会話では解消されるはずもない。

互いが一言発するたびに

それぞれが自身の前に

重く冷たい壁を築くような会話が

開けっ放しの戸から吹き入れる風とともに

玄関の空気をシンと冷やした。

荷造りを終え、母に出発の声をかけた。

「いろいろありがとうね。自分の父さんの時は、私はあんたが私にしてくれるみたいに熱心に看病しなかった。がんだと知らなかったからね。隠されて。感謝してる。無事に帰ったらメールして。」

笑顔の瞳にうっすら涙が浮かんでいる。


母はがんと同時に

想像以上にたくさんのものと闘っている。

踏み入れない厚い壁の内側の母に

娘として何ができるのだろう。

ピンク映画の古傷

19歳の冬、4つ年上の彼氏がいた。

同じサークルの先輩で、

最盛期のポール・サイモンを彷彿とさせる

影のある、彫りの深い顔立ちの人だった。


ありとあらゆる映画に詳しく

特に60〜70年代の映画を好んだ。

私たちのデートのほとんどは

都内のミニシアターか自宅鑑賞会だった。


彼は寡黙で感情の波の少ない人だったが

映画の「撮り方」「脚本」に関しては

こだわりが強かった。

舞台監督や映画製作の経験があったからだ。

特に彼が嬉々として熱く語っていたのは

ピンク映画についてだ。

日活ロマンポルノやらなんやらを部屋で流しては

性的な視点でなく映画作品としての批評を

身振り手振りでしていた。

おかげでファーストキスの思い出すら

傍で流れていたピンク映画に侵食されている。


東京には変わった男がいるんだな。

上京したてだった私は、大都会の洗礼とでも言うように、映画狂が見せるあらゆる世界を旅し、味わい、触れた。洗練された美しい景色もあれば、油絵の具をごちゃまぜにしたような、心にへばりつくようなものもあった。私は目一杯の背伸びをし、無い頭を振り絞り、ミルフィーユのように薄く何層も重ねた知識で身を固めていた。決して愛想を振りまくタイプではない彼の、誰も知らない顔を知っている特別感だけは、ただただ大きかったのを覚えている。サークル内でモテたインテリと付き合っている、そんな高揚感で舞い上がっていたような気がする。


彼と会わなくなって数年が経つ。


セックスの最中、頭の中で、あの頃観ていたあらゆるピンク映画の濡れ場の場面が大昔のフィルム映画みたいにガシャガシャと映し出される時がある。芝居に出てくるセックス特有の、誇張した喘ぎ声と、顔をしわしわに悶え、汗ばむ男女。すぐ目の前で繋がってる相手の表情がそれに重なり、頭の芯から嫌悪感が沸々として、イケたもんではない。


映像の力は絶大だ。こんな時はいつも、視覚的な情報とともに一気に時が巻き戻り、当時の空気、話した会話までを伴って、頭の中で自分が主演のノンフィクション映画が始まる。私は大量のフィルムの中に、インテリに愛されているという奢り高ぶった感情の裏で、あの時間を愛しむ自分を見るのだ。オールナイトで映画を観た後に始発電車を待つファストフード店を、歴史や思想、文芸の世界へ繋がる特別な場所にしてしまう彼に、この上なく愛おしい眼差しを送る自分を突きつけられる。


こんな時、自らの自惚れに対する羞恥心がお腹から込み上げ、古傷が鈍く反応するのだ。


20歳の誕生日に、ゴダールの「女は女である」のDVDをプレゼントされた。散々ピンク映画からのヌーヴェルバーグ。抜け目ないチョイスが憎らしい。今も、彼の中の色褪せたフィルムに、この映画の中のカリーナみたいに無邪気に笑う私の姿が少しでもあるかは定かではないが、そう思えばワインで痛みは誤魔化せる。美化した思い出の取扱いは自由だ。説明書はない。


今夜はもう少し飲もうかな。