人生ミルフィーユ

日々のふとした瞬間の重なり。

白い部屋

あたしの部屋は、一言で言えば白い。


キッチンとリビングを隔てるドアと

カーテンがグレーなことを除き、

白い壁、白い天井、白い冷蔵庫、白いタンス、

白・白・白である。


友人が言うには「ビジホの部屋並みに生活感がない」というこの部屋で半月ほど療養した。

安静が必要とのことで

ベッドで寝ながら天井を眺め

外の交差点を行き交う車の音を聞いて過ごした。


背中から体が溶け出して

ベッドに染み込んでいくんじゃないか。

寝れば寝るほどぼんやりしていく頭で

そんなことを思った。

読書でもして過ごそうと思っていたのに

病からくる体の痛みに

思っていた以上に気力を奪われている。


寝たままリモコンに手を伸ばしてテレビを付けた。

普段はあまり観ないのだけど

ぬるま湯でふやけきったような脳みそでも

音と視覚でごちゃごちゃと訴えてくるのを目で追いながら

なるほど、頭を使わなくて済む媒体だと言われる所以が身をもって理解できた。


私が寝ている間に、世界は動いていた。

有名自動車会社の会長が変装姿で保釈され

アポ電強盗殺人犯や、

コカインを使用した有名俳優の逮捕、

平和国家ニュージーランドでの銃乱射事件。


世界、と言っても、テレビから入ってくる情報はそのくらいだ。あとはゴシップかひたすらグルメ、グルメ、グルメ。

日中の情報番組(と一応呼ぶ)は

何かへの嫌悪や、批判意識をやたらと煽っていて

なんだか頭が痛くなり、胸焼けがする。

いろんな色が目に入ってくるからだろうか。


起き上がってカーテンの外を見る。

忙しなく走る車、いろんな速度で歩く人たち、

並ぶ飲食店、乱立する看板。

目に入るありとあらゆる形や色、物の質感に

胸を圧迫されるような感覚を覚える。


ああ、色がどぎつい。


体を壊すまで、

普通にあちら側で過ごしてきたのに。

ひたすら体と頭を休めることに努め、

自分が時間を司ることができるこの白い部屋で過ごすうちに

あちら側で、どう過ごすべきだったか

戸惑う自分がいる。


「過ごすべき」。そう、「べき」。

あちら側には、そういうルールがたくさんある。

白とか曖昧な色ではなくて

何者か、何色かを、

明確にふるまいで表さねばならない。


あたし、何色なんだっけ。

何色でいることを求められているんだっけ。

表す色を、出そうとする色を否定されながら

求められている色が明確にわからないまま

10年も時間が過ぎている。


最近は、何色でいたいかという

自分のことですら、わからなくなりつつある。

白は保つことが難しいから。

黒が少しでも混ざれば灰色になるし

赤が混ざればピンクになる。

パレットの中でたくさんの色と一緒になったら

とても危うい、か弱い、儚い色だから。


部屋の窓からだけでも、

こんなにたくさんの色があるなら

あたしがあたしの色でいられる世界も

どこかにあるんだろうか。

あたしの知らない色が、

もっともっとあるんだろうか。


求められる色を敏感に理解して表現できる利口さが求められるこの世界で、

必死で何色かになりたいとあがきながら

どうしても染められたくない自分の色を

持ちたいと思うのは、愚かしいのだろうか。


あらゆる人たちがぶつかり、混ざり合った結果、

生まれたであろう色がせめぎ合う風景にカーテンを閉ざした。

グレーのカーテンは、

あちらとこちらをいい塩梅で隔ててくれる。

グラデーションを作るみたいに。


もうしばらく、白色に包まれていたいのだ、あたしは。染まらない部分が残っていると信じていたいのだ。


帯状疱疹で、一皮剥けたい②

一人暮らしの自由度は計り知れない。
学生時代も加えれば
私はもう随分、それを謳歌してきた。

ああ神さま、
これは決して私だけの贅沢ではないはずです。
特段の悪行もせず地味に、ふつうに、サラリーマンをしてきました。ほどほどに、です。
帯状疱疹になる由縁などないのです。

一人でいることの不都合は
健康を害したときに一気に押し寄せる。
たかだか水疱瘡のウイルスなのに
体の中で、何年も潜伏期間を経て復活すると
なんだこの様は。
痛みに加え、体を横断するぶつぶつの密集が
メンタルに大きなダメージを与える。
体が一部分だけ、特撮モノの怪物になったみたいだ。

プルル!というスマホの着信に
ビリリ!と体が反応するのに歯を噛み殺す。

「仕事終わったら物資届けるよ。欲しいものあったらメッセージしといて!」
昔からの友人だ。ああ、助けて。

体さえ動けば何かしら作れるくらいのものが
冷蔵庫になるのだけれど、作れる気もしない。

お惣菜の詰め合わせ、フリーズドライのスープとか味噌汁、栄養補助食品、ヨーグルト、アイスクリーム…あ、あとトイレットペーパーがもうすぐ切れるし、2リットルの水を3本くらい。

男友達だから重いものも良かろうと、遠慮ゼロの注文を付けた。夕方、彼は買い物袋をさげてやってきた。

自宅療養は、退屈この上ない。袋の中身を、痛む体でゆっくり確認しながら、いかにこの病が厄介なものかをここぞとばかりにブチブチこぼした。招き入れてもてなす気力がなく玄関先での対応にも関わらず、うんうんと親身に聞いてくれる友人。

袋の中身に、注文していないものを見つけた。

「あ、それね、美味しそうだったから差し入れ。お使いくらいしかできないけど、早く良くなってね。」

一人暮らしをすると、買うことが少なくなる果物。ほんのり甘い香りが鼻をかすめ、赤い小ぶりなフォルム。優しい友人の言葉もあいまって心が緩む。

何かしなきゃ価値を認めてもらえない世界で、
特に何もしないのに、
自分のことをこうして按じてくれる存在はそう多くない。作るのだって難しい。
療養期間だけとはいえ、仕事を手放すことを決め
自宅で何もせず過ごしていると
自分の無益さや、無益に過ぎていく時間が
とてつもなく空しく感じられる。

何かしなくちゃ、生み出さなくちゃ。
一歩外に出ると、同じようなことを考えている人たちの塊に押し流されて、
自分の歩調を保つことすらままならない。
体を病む心当たりはないのだけれど
私たちは自分が思う以上に
只ならぬ何かに急き立てられているんだろう。

友人はにっこり笑う。
スウエットで、髪がボサボサでノーメイクの私にも優しい。
買い物に行ってくれる、助かるということ以上に
無防備な私でも認めてくれる人がいるという安堵感。

ちょっと波に乗れなくなった自分も
認めてあげてもいいのかな。
誰に認めてもらえなくても
まず自分でそう思えないと
何かに煽られる感覚からは逃げられないのかもしれない。

自分にとって大事なものを
少し整頓してみよう。
思っているより多くないかもしれない。
心身をこじらせてるのは自分かもしれない。

友人がドアを締めて帰るのを見送り
そんなことを考えていたら
お金を払うのを忘れたことに気づいた。

この調子だときっとまた頼まなきゃだし
そのときにまとめて払おう。
次の差し入れが何かも楽しみだ。

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帯状疱疹で、一皮剥けたい①

数日間の体の違和感を経て、帯状疱疹なるものを発症した。たいして大きな病気の経験のない身体を、容赦ない痛みと夥しい数の水疱が襲う。


苦痛に顔を歪めて医者へ行ったが、こういうときのストレス溜まってるんだよ、疲れてるんだよという診断ほど、救いにはならないものはない。もっと自助努力でどうにかできる原因なら良いのだけれど。そりゃ、ストレスあるでしょうね。どうしろと?


痛みが生活への活力を奪う。食べる気も起きず、眠れない。呼吸するのも苦痛である。せめて座っていられるようになるまで、しばらく仕事を休むことにした。上司は、私の体調への労いなく、仕事で不具合が出たら連絡するわ、とだけ言って電話を切った。それから、突然止まった私の仕事に対して確認のメールやショートメッセージがいくつか入った。次の日は各所電話対応に追われた。


その後、雨の日と晴れの日が交互に2回やってきた。窓の外からの光があたたかくなり、街行く人が上着を手に持って歩くようになっている。私がグルメ番組とゴシップなのか報道なのかわからないワイドショーを眺めて寝たきり生活をしている間に、春は近づいているようだ。


スマホが鳴らなくなり、時間が過ぎるにつれ、会社員ではなく、私が私になっていく。会社に行かなくてはという焦燥感が薄れていく。私がいなくても仕事や社会は回っている。当たり前のように私の仕事、私の役割と考えていることは、実は自分が創り出した虚像のようなもの。私がやらなければ誰かがやり、その形を変えていく。それ自体、無くなってしまうこともあるかもしれない。


それが虚しいとか悲しいというのではない。会社員であろうとフリーランスであろうとクリエイターであろうと、みんながみんな、自分が作り出した役割の中で社会で生きている。やならければ誰かがやる、もしくは存在を認知されないだけ。そして、この満たされた世の中で、絶対無くてはならない価値を生み出すのはもはや難しい。ないより便利とか、まあ無くても困らないとか、私たちはそういうことに自分の時間を使っている。


社会を椅子取りゲームに例えた話をよく聞く。しがみつかなければ、座る椅子が無くなると。だけどその椅子は、とても不確かな存在。そもそもその椅子、本当に足らないの?もっと言うと、本当にそこにあるの?自分で座らなければいけない、そこにしかないと思い込んでいる椅子を自分で作り上げ、勝手に奪われることを恐れているだけなのに。本当は、無数にあるかもしれないのに。逆に、椅子なんてないかもしれないのに。


だけど、みんな、そうして生きてる。窓の外の世界はそうして流れている。


だからこそ、椅子をどう捉えるかがとても大切。座るべき椅子にこだわり続けるか、少なからず意味があると思える椅子を自分で用意するか。


春、働き始めて10年になる。このタイミングで体を壊したことが、なんらかの意味があるようでならない。


普通じゃないから、好きにさせてよ。

【「普通」って大嫌いだ】

芥川賞受賞作品「コンビニ人間」を読了。

ここ一年くらい、仕事関係の書籍とは別に

意識的に一定量、小説を読むことにしている。


トランプ大統領就任後から特にだけど

多様性がやたらと叫ばれて

みんながみんな役割を持って輝かなきゃ駄目だ!

と言わんばかりに登場人物みんなが大活躍したり

国の時代背景的にありえないだろ?というレベルに

多様な人種の人たちが起用されてたり

すんごいポリティカルコレクト…

…みたいな映画や小説が多くてどうなん?と。

それって多様性を描いてると見せかけて

みんなを同じテーブルに乗せて

こうあるべき!ってキラキラ世界の

特定の生き方を強要してるだけ。


比べて本作。本質を突きつつ淡々としてて痛快。


別に良いと思うんだよね。

みんながみんな特技があるわけじゃないし

居心地が良いと思う場所も生き方も違う。

それを認めて生きていくという選択をする人の存在も

許容できれば、多様性の本質よね。


普通●●。女なら●●。30代なら●●。

そうやって人の生き方に干渉して

自分の価値観を押し付けられることの多いこと。

わかるわーって一気に読んだ。

わかる時点できっと、私も「普通」からずれてるんだろうな。


ちなみに最近かけられそうになった呪いは

同期からの

「この歳になったら子供が2人くらいいて

家のローン払ってるのが普通だよね」である。


そーすか。としか言いようがないけど

それが普通なら、

私の価値観的には、普通じゃなくて別に良いです…

当たり前の幸せをくれる人と言うものかこれが

11月に大阪への出張が決まった。

ふと、学生時代の友人を思い出した。

ゼミが同じだった彼女は、

サークルの先輩であった旦那の転勤で

大阪へ引っ越して行った。


LINEで連絡を取ると

旦那は大阪勤務の後に異動となり

今は金沢にいるそうだ。

ついでに、今は子供が2人いることも知らされた。


30代にもなれば、珍しくないことだ。

過去の友人のことを思い出して

「久しぶりに会ってみたいな」と思うのは

自分だけなのではないかと気後れしてしまう。

結婚もせずに単調に仕事をする日々で

人生のステージが自分だけ変化していないような

相手に対して気まずいような

自分の現状が疎ましくなるような。


そもそも、友人全体の母数が少ない。

あの子は今は留学中、

あの子は今は海外赴任中、

あの子は東京で残業三昧だ、などと考えていると

ちょっとご飯でも、と言える友人は皆無だ。


そうなると、やっぱりこいつだ。

学生時代の共同研究者。

なんだかんだで月に一回くらい

嫌な顔をせず付き合ってくれるのだ。

脈絡もオチもなく、

ただ聞いてほしいだけの女の話に

男のくせに嫌な顔をせずに付き合ってくれる。

沈黙になっても苦ではない。


なぜか、こいつと食べるご飯は進むのだ。

1人で食べるよりも

ご飯の味がちゃんとする。お酒も美味しい。

女同士特有の、

互いの現状を競い合う空気も

相手の顔を伺いながら

いかに詮索を入れるかという卑しい空気もない。

こいつだからなのか、男だからなのかは

わからないけれど。


思えば、家族が揃って食事をするような家庭に育たなかったため、

誰かと相対して食事をするという機会が

幼少期から少なかった。

その機会があったとしても

兄は無口だったし

私と何を話して良いかわからない父は

私との間に新聞紙の壁をつくって

目を合わせようともしなかった。


こいつと食事をしていると

これ美味しいね、とか

今日こんなことがあってさ、とか

そんな些細な経験が、私にはなかったことに

改めて気づかされる。


ひたすら好きなものを食べ

仕事のこと、映画のこと、歴史のこと

互いの話したいことを話し

またねと別れる。


その「また」は比較的すぐ来る。

こんな確信が持てる関係は

目に見えないものは信じない私には

とても貴重なのだ。

だって、ありふれた当たり前は

決してその辺には落ちていないことを知っているから。


比べずにはいられない性

年齢の割に稼ぐほうだ。

あまり時間にも縛られず

プライベートを楽しむゆとりもある。


大好きな人もいる。

近く一緒に住む。


全部自分で選んでる。

何をして働き、誰を愛し、どこに住み、

全部自分で選んで、今の私がある。


だけれど、

全てを自分本意で決められるわけじゃない。

例えば、家が貧しいからとか

継がなければいけない家業があるとか

一人っ子だからとか

いろんな条件で生きていて

その中で、瞬間・瞬間の

「最善」と思しきものを選ぶのだ。

誰にでもあることだ。


裏返せば、

環境や社会によって

選ばされている選択もある、ということ。

結果として、自分で選んだものでも

「もし違う状況だったら」と

選択を悔いたり

選ばなかった選択肢に

思い焦がれたりする。


SNSで流れてくる

もう10年以上会っていないような

かつての親友の今。

起業して、成功した事業を

華々しく投稿したり

大企業を辞めて

好きなことをするために留学をし

現地の美しい風景を投稿したり。


生きてれば、うまくいくことばかりじゃない。

この子たちにも

それなりの苦しさや不満はあるはず。

わかっていても

なんだか自分だけが

思い通りにならない世界にいるみたいに思う。


何かを得れば何かを捨てなきゃいけない世界で

私は私の最善を生きているはずなのに。


人に恥じるような生き方はしていないし

この子たちの生き方と優劣がつけられるわけではないけれど

自分で自分を納得させるのが難しいのは

なぜなんだろう。

脱・母娘の呪い

子供にとって母親の影響力は大きい。

家庭で過ごす時間の比重が

父親より大きいことによるのかもしれない。


私はそういう意味では母っ子だ。

料理が上手で、自慢できる人だし

不自由なく、私を育ててくれた。


感謝している。とてもね。

でも、今になって思う。

母のことを惨めな人だと思うようになったのは

一体いつからだっただろう。

その気持ちに常に鷲掴みにされていた。


母は孤独だった。

家のことに無関心な父とは諍いが絶えず

父にどんなひどいことを言われたのか

私たちの物心がつかないほどの過去まで遡って

事細かに、何度も話した。


実際に父の母に対する態度はひどいものだった。

今時で言う、完全なるモラハラだ。

私が中学生くらいまでは

母もそれに大声で応戦していたが

いつしか、父の怒鳴るのに対し

突然人形にでもなってしまったかのように

ドローンとした顔をし

部屋に立てこもったり、家出をしたりするようになった。


無関心を装うことで、自分を守るようになった母を見て

私の中で父に対する嫌悪感が募り

母をこれ以上に孤独にはしておけないという

焦燥感が募った。


祖母が認知症になった。

兄が引きこもりになった。

母にとって、心労が増える出来事が

我が家には多すぎたことも

その感情に拍車をかけた。


相変わらず、

母は自分に対する父の悪態を

私にそのまま垂れ流す。

兄の気分が不安定なことの不満や

自身の子育ての過ちについて

私に同情を求める。

「私はお母さんの味方だからね」

「お兄ちゃんも子供じゃないからさ」

「お母さんよく我慢してるよ」…

私のこんな言葉に、

一時的にすっきりした気分になる、ってことを

何回も何回も繰り返した。


お母さんは、

離れて暮らす私の幸せだけが支えと言いながら

そうやって幸せになろうとする私に

罪悪感を与えて

私の心を、頭の芯を縛り付けてるの

わかってるかな。


私、ちょっと疲れちゃったんだ。

結婚生活30年超、

お父さんと、理解し合うとか

妥協点を探り合うとか

そういう努力はした?

お兄ちゃんとどう関わっていくかなんて

本来は私に相談することじゃないよね?


お兄ちゃんは、私みたいに強くなかった。

だからお兄ちゃんは自分なりに

負の空気に包まれた家の中で

自分を守ってるんだと私は思うよ。


私は結婚も子育ても経験してないから

「お母さんなりに頑張った」と言われれば

何も言えないけどさ。


家族それぞれ、見えてる景色が違うから

自分の基準を相手に求めるのは

本当に難しいね。

みんな

こんな状態を望んで過ごしてきたわけじゃないし。


でもねお母さん

とりあえず、私は疲れちゃったんだ。

あなたは不幸の渦の中にいると言う。

だけどそれはね

あなたの一つ一つの

行動の選択の結果だよ。


こんなことを言うと

「家族のために自分を犠牲にしてきた」とか

あなたは感じるのかな。

それとも

「頭の良いあなたにはわかりっこない」かな。


どちらも、現実に返ってきそうな答え。

私はそれが、本当に怖いんだ。

だから、事実をあなたに突きつけることは

残酷すぎると思っちゃうんだよね。


私は、私の人生を生きるよ。

幸せが何なのかをしっかり考えながら。

あなたの時間とともに

私の時間も、同じだけ流れているからね。


あなたに笑顔になってもらいたかったのも本当。

だけど、それで自分が磨り減っていくのを

気づかないふりして過ごすのは

もうやめるんだ。


消せない罪悪感を抱えてるからこそ、ね。